ストリップ散文

春休みに坐禅部で連れ立って鬼怒川温泉に行った。現在の鬼怒川は九龍城砦さながらの廃墟街であるが、地域で唯一の日本人オーナーである女将曰く、かつては300もの宿があり週末にはすべてが満室になるほどの栄華を誇っており、大量にいた芸者もみなテンテコマイだったという。

深夜に酒を飲みながら、最近ストリップにはまっているという後輩の話を聞いた。かつての温泉街の芸者のイメージをストリッパーに重ねながら、わくわくした。

 

数週間後の夜、われわれは新歓コンパの大学生たちひしめく渋谷のマーク下に集合した。

後輩の友人がひとり遅れて来た。ラーメンをまともに食べたことがないようなお嬢様で、クリスチャンだという。「あなたはストリップなんて観ないよね」と煽り気味に誘ったら来ることになったらしいが、クリスチャンがストリップなんて観に来ていいのかしら。

なんのことはない。われわれ坐禅部は月に一度五体投地で帰依を表明し、四弘誓願を唱えて「煩悩無量請願断」と唸っているのだ!

衆生無辺請願度、衆生をみんな救済するぞ!

煩悩無量請願断、煩悩なんてくそくらえ!

法門無尽請願学、この世の全てを学んでやる!

仏道無上請願成、仏教サイコー(^^)v ぜってー「成」る!エイエイオー!

 

劇場にいた客30〜40人のうち女性は意外と少なく1人か2人で、あとは外国人観光客を除いてみな40代以上の男性だった。60代以上のシニアが多く、客席に囲まれた円形のステージ、照明、音楽、芸者に客も加えた全体としてストリップ劇場というものを形成しており、ぽっとやってきたわれわれヤング男女6人組はどうも浮いているように感じられた。

劇場はクラブさながらの爆音をびりびり肌で感じられる薄暗い空間で、照明が芸者の肌を実物よりずっとあでやかに魅せていた。客席中央の出島のような円形ステージは床が上下し回転するしくみで、座席によらずすべての角度から公平に芸者の肉体のあらゆる箇所を観察できるユーザーエクスペリエンスを提供する。

 

ぜんぶで5人の芸者をみたが、どうも選曲、振付から衣装に至るまで世界観の設計が芸者本人にまるっと任されているような気がする。

最後までネグリジェを脱がず、芸の最中ここぞというタイミングでスカートをめくって局部をみせる方式のストリップをする芸者がいたが、あれはただの性的ポルノでしかないように感じられた。

「あなたはこれが見たくてここにいるんでしょ」と言ってピンポイントに局部を見せられると、「俺はおまんこが見たいんじゃないんだ!肉体の美しさを享受したいだけなんだ!」とうめきたくなる。

障碍者が障碍に負けず前向きに努力する様子を取り上げることで自動的に視聴者が感動するような作品を「感動ポルノ」というが、ストリップは油断するとすぐに「性的ポルノ」になってしまう。自分の意に反して見せつけられるポルノは加害的ですらあり、自分でわざわざ女の裸体を見に来たのに、図らずも被害者になってしまう。

その芸者のチラリと見えた腹部にトラ模様顔負けの妊娠線があったので、芸の形があれに陥った理由はそれだろう。転職のきかない職人を、5人の芸者による団体戦の次鋒中堅あたりで養う業界の懐の深さを垣間見た気がした。

 

ショーには芸者ごとに演技の時間、記念撮影の時間、最後のあいさつの時間がある。

演技の時間にはみな真剣な顔をして踊るのだが、写真撮影の段になると口元はほころび、よく喋る。ステージの上では役者だが、客とのコミュニケーションを見てるとまるで老人客の孫娘のようだった。芸者がちゃんと生きていて、常連客とのコミュニケーションの一部として芸を披露しているように感じられたのが少し感動的だった。

写真撮影の後のあいさつでラストおまんことおひねりの交換があるので、写真撮影のときに軽快にコミュニケーションをとって客との距離を縮めておくことは芸者にとって戦略のうちなのだろう。

最後のあいさつは、まるで下の口で「ありがとう」と言っているようで、明るい照明とアップテンポなBGMもあいまってこれは下品に感じられてしまいあまり直視できなかった。

 

ショーは団体戦で5人が順に出てくるが、これがそのまま順に脱ぐことがわかってるというのはすこしもったいない気がする。健康と同じで、所有することが当然と感じてしまった対象に人は価値を感じられなくなるのだ。

秘すれば花」というが、立て続けに何人もの裸を見ていると秘さない女体の花性なんて忘れてしまうじゃないか。

また、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』に「媚態」という言葉が登場する。これは「相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なのもとしてはあらわれない態度」「保証されていない性交の約束」だと説明されている(ところで、人生における小説というものは学術研究における論文のようなもので、先人が体験・発見した感性を言葉にして遺してくれて、先人の感覚と似た感覚への到達のための遠回りをときに回避させてくれる)。

ストリップにもこの「保証のされなさ」を導入するといいのではないか。つまり、5人のうち何人かの芸者が脱がないシステムはどうだろう。ランダムで脱がない芸者がいたほうが脱いだ女体の価値が引き立つものだ。「こいつの裸体は見たい!頼む脱いでくれ!」と必死になり、ギャンブルと似た心理になって興奮できる。彼女が脱いだ時の喜びもひとしおだろう。もし脱がなかったら、次こそは絶対に見てやるぞという気持ちになって客の射幸心を刺激してやれるのではないだろうか。

 

はじめてのストリップショーに舞い上がって記念撮影タイムに思わずツーショットを撮ってもらったことをあとになって後悔した。あの肉体の美しさを写真に固定することなどできやしないのに。 肉体の美しさは動きの中にあるのだと思う。踊りにあわせ捩じれ呼吸にあわせ上下する腹部の筋肉、胸からみぞおちにかけてにじんだ汗のきらめき。肉体のリアルをまたいつか観にいこうと思う。